大和楽とは
初めてでも楽しめる邦楽「大和楽」
大和楽ってどうやってできたの?
「大和楽(やまとがく)」ということばの響きから、飛鳥~奈良時代の音楽や宮中に伝えられた雅楽などを連想される方も多いのではないでしょうか? 実はそんなに古い時代の音楽ではなく、昭和に端を発したいわば新時代の音楽なのです。大和楽の創設者である大倉喜七郎男爵は、大正から昭和にかけて、「今までになかった全く新しい日本音楽」を創るために各界より超一流の名士を集めて新しい音楽を創作しました。大和楽は、大倉男爵によって「日本の伝統音楽のうちに秘められた精髄を取り出し、それに現代的な発声の衣を纏わせて人々に愛唱される形式を創出しようと試みる楽派」と定義され、昭和8年に創設されたのです。
創設者 大倉喜七郎
大倉男爵は大倉財閥のオーナーであり、大倉商事、ホテルオークラ、川奈ホテルなどを創設し又、帝国ホテルをはじめとする様々な事業の会長も兼任され戦後の日本に大きな足跡を残しました。
大倉財閥を創始した父、喜八郎氏の影響もあって、美術や音楽をはじめとするあらゆる分野に精通していました。氏は大和楽の作詞、作曲、演奏の全てをこなし、尺八とフルートの長所を併せ持った「オークラウロ」という吹奏楽器の考案、製作をも手がけました。大和楽は氏の存在なくしては語ることができません。一中節都派の第十一世家元でもあった氏の作曲した大和楽の初期の作品は、えもいわれぬ懐かしい雰囲気を醸し出し、日本の叙情歌にも通じるものがあります。
独特の情感をたたえた邦楽
大和楽は、江戸時代から続く伝統的な三味線音楽の長所に、西洋音楽の発声やハーモニー(和声)、輪唱、ハミングなどの演奏法を採り入れ(現代は専ら女性が唄を担当)、全く新しい自由な形式を持った音楽としてその歴史をスタートさせました。初期には大倉喜七郎(聴松) 長田幹彦、笹川臨風、西条八十、北原白秋、邦枝完二、長谷川時雨らが作詞に。岸上きみ、宮川寿朗(清元栄寿郎)らが作曲に。演奏に初代家元大和美世葵(三島儷子)らが中心となり活躍しました。後に仁村美津夫、駒井義之、谷村陽介らが作詞に。二代目家元大和久満は大和楽の新しい可能性を追及した多くの作品の作曲を手がけ残した数は150曲に及びます。そして三代目家元大和櫻笙らがこれらを引き継ぎ創設から約85年経った現在、大和楽は日本舞踊などでも頻繁に聴かれるようになり、限られた人たちの占有物だった大和楽は、誰もが楽しむことのできる音楽になったのです。その独特の響きは形容しがたい情感を湛え、現代の人々の耳にはむしろ清しく聴こえることでしょう。
大和楽の定義
これからの日本の音楽という意味で、他のものと混同されないため、大和の国の音楽、大和楽と名付けた次第です。
大和楽も邦楽である以上、その基盤を日本の古典に置き、西洋音楽の材料、表現形式をも自由に取り入れ、ここに洋の東西を問わぬ、現代に相応しき新日本音楽を創出せんとする新しい楽派となったのであります。
日本の音楽は、その音の扱い方において、西洋音楽に求め得られぬ独特の味わいを持っております。音から音へ移り行く過程に限りない変化を含み、西洋音楽の全く顧みぬ境地を開拓しております。これらの点は改めて新しく強調されてしかるべき事と信じます。
使用の楽器は日本の楽器のみならず、西洋楽器もまた適当に利用し、従来の狭隘な日本風な様式は、抱擁力豊かな規模の大きなものに伸長されんとしております。
もとよりこの種の仕事は、初めに理論があって、それに従って進むという具合にはまいりません。むしろ逆に、ある程度の目標を設定した上に、さまざまな問題にぶつかるに従い、具体的に処理して行ってこそ初めて理論もできあがり、作品も完全なものとなるはずであります。
日本音楽の伝統の中から、また、西洋音楽の優れた面から有益な要素はことごとく摂取し、飽くまでに日本人の感性に相応しい音楽作品を得たいと申すのが、大和楽の意図とするところであります。
[大倉聴松(喜七郎)談]